盛川下流域定点パノラマ
―普金山から見続けた郷里―

昭和20年代後期頃の盛川下流域。両岸に水田地帯が広がっています(画像をクリックすると拡大表示)。

 冒頭の写真は赤崎町の普金山から撮影されたもので、4枚のガラス乾板からパノラマ合成したものです。初代・多喜治は、この定点撮影を昭和20年代後期から40年頃にかけて計14回、乾板とフィルムを併用して行っています。同行していた2代目・尚武によれば、多喜治は山の中腹にある大きな木に登り、見晴らしの良いポイントから撮影していたそうです。

 ここでは、昭和20年代後期の撮影と思われる写真を、後年との比較を交えてご紹介します。

川口橋付近(パノラマ合成)

昭和20年代後期頃。大船渡町と赤崎町を結ぶ盛川川口線が、汽水域に囲まれた水田地帯を横断しています。
「大船渡市 五十年の歩み」によれば、大船渡町欠の下向にあった水田や原野は昭和29年7月、工場誘致に伴う用地買収交渉が成立しています。この写真では水田利用がまだ継続しているように見えることから、昭和20年代後期頃の撮影と推定しています。
昭和32年頃。水田および周辺の水路が埋立てられ、盛川に護岸が整備されています。
昭和34年頃。埋立が進み、盛川左岸(画面手前)の水田にも変化が見られます。

大船渡町中港・砂森付近

昭和20年代後期頃。盛川左岸には畑のような土地が見えます。
昭和32年頃。新田・地の森の山側には、南北に伸びる道路が建設されています。
昭和34年頃。水田の大半が埋め立てられています。盛川左岸の水田区画にも変化が見られます。
昭和前期頃の大船渡町中港付近。二頭の牛を連れた男性が畦道を歩いています。

大船渡町砂森・地の森付近

昭和20年代後期頃。丸森権現堂線と大船渡線は現在のような立体交差ではなく踏切で交差しています。(画面右上)。
昭和32年頃。地の森に変電所が建設され、丸森権現堂線の新ルートと思われる造成が始まっています。
昭和34年頃。丸森権現堂線の建設工事が進んでいます。砂川・堀川付近の水田が埋め立てられています。

佐野橋付近

昭和20年代後期頃。盛川右岸の水田地帯は盛駅周辺まで続いています。
昭和32年頃。岩手開発鉄道 盛駅~小野田セメント間が開通(昭和32年6月)しています。
盛川には護岸が整備され、川筋に変化が見られます。
昭和34年頃。

 南米チリで発生した地震による津波が日本列島を襲ったのは、昭和35年5月24日早朝。大船渡では、丸森権現堂線・地の森ルートが開通して間もない頃でした。
 戦後復興期、変わりゆく郷里を普金山から見続けていた多喜治は、この自然災害がもたらした、それまでとは全く異なる変化と対峙することになります。

参考文献:

  • 大船渡市市制施行五十周年記念誌編集委員会 編 『大船渡市五十年の歩み : 幸福を実感できる市をめざして』 大船渡市、2005年。

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