
水田の埋立が進み、目まぐるしく変化していた盛川下流域。南米チリで発生した地震による津波が襲来したのは、昭和35年5月24日早朝のことでした。
金野菊三郎 編『チリ地震津波大船渡災害誌』には、パノラマに写る大船渡町地の森から笹崎にかけての市街地で、特に甚大な被害があったことが記されています。また、橋や水田の被害、復旧の過程についても詳しく記録されています。
ここでは、同書の記述と定点パノラマを照合しながら、交通の要所であった川口橋の復旧過程を中心にご紹介します。
造成土砂の流出
佐野橋線以南にあった水田には、津波によって隣接する造成地から浚渫土砂が流入したことでガラスや釘、板片などが多数埋没し、水田としての復旧は容易でないとされました。

佐野橋の復旧
昭和17年に建設され老朽化していた佐野橋は、津波によって橋脚部分が洗われ、傾倒したため車馬(自動車や馬車など)の通行を止める措置が取られました。



川口橋の復旧
川口橋と振興橋(川口橋の西側に架けられていた橋)は、赤崎町側への給水管(※文献の記述による)を併設していましたが、津波によって橋と給水管がともに流失しました。そのため小野田セメント大船渡工場の専用水道を赤崎線に切り替える処置が行われ、5月28日から陸上自衛隊による水道管布設工事が始まり、31日から給水が始まりました。
盛川河口では被災から3ヶ月を経て木造の仮橋が完成し、昭和36年11月に川口橋の起工式が執り行われ、建設工事が着工されました。


川口橋と佐野橋が通行できなくなった事に加えて、上流の中井橋においても取付道路の不備から車馬の通行に制約があったとされています。そのため大船渡町と赤崎町、綾里方面を結ぶ路線は、佐野橋が復旧するまでの間、さらに上流の権現堂橋を通る6km余の迂回を余儀なくされました。








この復旧から48年後の平成23年(2011年)3月11日、東北地方太平洋沖地震による津波が再び大船渡を襲います。川口橋はチリ地震津波を遥かに超える巨大津波に耐え、地域の復興を支えましたが、盛川堤防の嵩上げ工事に伴い架け替えられることとなり、その役目を終えました。

史料
- 当館所蔵ガラス乾板およびフィルム(昭和20年代後期~40年頃)
参考文献
- 金野菊三郎 編『チリ地震津波大船渡災害誌 : 1960』、大船渡市、1962年。 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9524999
- 大船渡市市制施行五十周年記念誌編集委員会 編 『大船渡市 五十年の歩み : 幸福を実感できる市をめざして』、大船渡市、2005年。