砂利取り舟

盛川 川口橋付近

昭和15年頃 フィルム6×4.5cm

山の稜線が一致し、戦前の景色が重なる地点。川筋は赤崎町側に向けて緩やかなカーブを描いています。川岸に立ち祖父の視線を想像する時、あたかも時間を飛び越えて旅をしているような不思議な感覚に襲われます(2025年4月撮影)。

 「舟人」「砂利取り舟」と記された、これらの写真は三枚撮影されており、祖父が強い関心を持って記録していたことが窺えます。木造の「かっこ舟」には男性が一人、中央部に砂利と鋤簾(じょれん)のようなものが積まれている事、そしてカゴのような漁具が船上に見られない事などから、私個人の推測ではありますが、この写真は川砂利の採取の様子を記録した写真と思われます。

ここでは三枚の記録写真を手がかりに、当時の作業の様子と盛川の風景を想像してみます。

 護岸側面からは杭が横方向に伸びており、結ばれた細いロープの先には船体後部が繋がれています。「杭」は陸上からは手が届かず、逆に船上からは届くような位置にあります。舟に乗ったままで係留・離岸ができるように作られていることから、この場所は停泊地というよりは一時的な係留ポイントのように思えます。

写真A 浅瀬で舟を係留し、作業を行っている様子。
a-② 舟に積まれた砂利のような山と、ジョレンのような器具。
a-③ 横方向に伸びた杭に、細いロープで舟が繋がれています。
写真B 船央付近で作業をしている様子。 
写真C 船尾側で作業している様子。
a-①、b-①、c-① 男性は頭部に布を巻き、長袖姿で作業をしています。a-①ではスコップのような器具を船底に向けて扱っているように見えます。船央付近では積まれた「山」に同じくスコップのようなものを突き立てているような姿勢をとっており(b-①)、船尾側では船底に手を伸ばしています(c-①)。写真A・B・Cはいずれも似た構図で連続的に撮影されており、男性の位置・動作が異なる事がわかります。

 これら三枚の写真は『シロウオ漁』と同じく昭和15年頃の撮影と推定され、遠方に写る川岸には「梁」を思わせる興味深い構築物が見受けられます。収納されているアルバムにも対をなしてレイアウトされていることから、祖父がこれらを「盛川河口域の象徴的な営み」として捉えていた可能性があります。

b-② 右岸に作られた、梁のような構築物。
c-② 左岸には岸から上流方向に伸びる杭の列と、その向こう側にワンドのような地形が確認できます。

 関東平野を流れる多摩川流域では、江戸時代から人力による砂利採取が行われていた記録があり1、羽田猛 著「中原街道と武蔵小杉 : 写真で綴る周辺の今昔」23には、人夫が腰まで水に浸かりジョレンを使って舟に揚げる様子が描かれています。また増水期である夏から秋にかけて砂利が下流へ流されて堆積するため、砂利採取の最盛期は冬であり、農閑期の小作人が多く従事していた事も記されています。

 写真の内容についてご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひ情報をお寄せくださると嬉しいです。

写真の「かっこ舟」については大船渡市史4で詳しく解説されています。「砂利取り舟」はどの舟か?是非ご覧になってみてください。

シロウオ漁

盛川 川口橋上流

昭和15年頃 フィルム6×4.5cm

川口橋の上流300m付近。川岸には堤防が整備されており、昭和15年の景色と比べて川幅が狭く橋も短い印象を受けます。吹き抜ける潮風と山の稜線が、かつての営みをかろうじて伝えています(2025年10月撮影)。

 盛川は初代が幼い頃から慣れ親しんだ川で乾板、フィルム問わず比較的多くの写真が遺されています。この写真はその中でも数少ない、戦前の撮影と思われるもので、シロウオ漁の様子を記録したものです。

 この漁は産卵のため汽水域に遡上するシロウオを網や梁(やな)を使って捕る漁で、その土地ならではの知恵と工夫が凝らされた、個性的な漁が日本各地で行われているようです。あらためてこの写真を観察してみると、網の形や足場の造りなど、素人目にも他の地域にはない特徴があるように思えます。

 竹竿の先に吊られた、四角錘状の骨格とその底面に張られた網。二列に打ち込まれた杭の間に積まれた石と、その上に渡された、足場となる板。これらは陸続きになっているようにも見えます。

 細長く入り組んだ大船渡湾の奥に位置する盛川河口域には、かつては干潟が広がっていたそうです。写真に記録されたシロウオ漁もまた、盛川特有の風土の中で育まれていた漁法なのではないか――。そして、これを二枚に記録した祖父は、この営みが消えゆくものである事を予感していたのではないか。

 漁師と、カメラを構える初代の姿を想像しながら、そんな思いがこみ上げてきます。

盛川のシロウオ漁。梁の上に作られた足場にたち、四つ手網を手にしています。
写真① 網を下ろしている様子。
写真② 網の骨格は竹竿の先に紐で結ばれ、吊り下げられています。
写真③ 足袋を履き、足場となる板の上に乗っています。
写真④ 杭の間に積まれた石。
四つ手網を持ち上げ、シロウオを籠へ移す様子。
写真⑤ 細い竹の先端を紐で連結し四角錐状の骨格を形成しています。底面に張られた網の中央部は目が細かく作られているように見えます。
写真⑥ 網から籠にシロウオを移す様子。奥には筒状の器具も確認できます。
写真⑦ 梁の隙間から水が流れ込む様子。梁を挟んで左側が岸、右側が流芯。

盛川に思い出のある方、盛川のシロウオ漁についてご存じの方はぜひお話をお聞かせください。本記録の拡大画像では他地域で行われているシロウオ漁を参考に、盛川の漁法において特徴的と思われる部分を取り上げています。この漁法について詳しい方からのご感想もお待ちしております。

参考文献

  • 川島秀一「シロウオ漁の生活誌」『いのちの海と暮らす―日本の沿岸漁業民俗誌』、株式会社冨山房インターナショナル 2022年

丸森の夫婦松

大船渡市大船渡町丸森 

昭和9年頃 ガラス乾板12×16.5cm

横位置のカット。北側(向かって左側)が女松、南側が男松。

 旅の道標や休憩場所として親しまれていたこの松は「塚松」とも呼ばれ、一里塚の傍らに二本寄り添うように立ち、その間を旧道(浜街道)が通っていました。圧巻なのは画面いっぱいに伸びる力強い枝葉で、撮影時の樹齢は約250年(1982年発行の文献に基づく推定)、画像に写る人物の大きさから推定すると、高さは約18m、幹の直径は1.5mほどあったようです。

 写真には建物や線路も写っており、そこに撮影意図が伺えます。後の調査で、この写真は大船渡線の開通(細浦~大船渡駅間、昭和9年)を機に、線路の陸側へ移住することになった家族を記録したものであることがわかりました。旅人を見守り続けた夫婦松は、住み慣れた地を離れる家族にとっても特別な存在でした。写真を通じて、原風景の中に伝わる思いをきっと感じて頂けるものと思います。

縦位置のカット。樹木、人物、家屋の位置はそのままに、手前に線路が写し込まれています。

 祖父・多喜治による写真撮影、特に昭和初期のガラス乾板を使った撮影では、一件の撮影が一回のシャッターで完了している「一枚撮り」がほとんどです。その理由は、一つには構図やアオリ(遠近感やピント面の補正)操作、露出の決定など職人技を駆使して一枚の撮影に集中していた事、そしてガラス乾板は高価であり重くかさばるため、携行できる数も保管場所も制約が多かった事が挙げられます。フィルムカメラを導入した後も「最小限の撮影枚数で完了させる」という撮影スタイルは一貫していたように思います。

 『丸森の夫婦松』は祖父の写真では非常に珍しく縦横の構図で二枚撮影しており、この事からも、本記録が単なる風景写真ではなく、鉄道の開通という社会背景と家族の思いが交差する、時代の移り変わりを記録したものである事が伺えます。

写真① 縦位置の構図に写る線路。丘陵が掘削され、線路奥には擁壁、手前には道路が確認できます。

夫婦松についてご存じの方、丸森の風景に思い出のある方は、ぜひお話をお聞かせください。

参考文献

  • 岩手県文化財調査報告書第76集『岩手県「歴史の道」調査報告 浜街道』(岩手県教育委員会 1982年)

中央マーケット

大船渡市大船渡町茶屋前

昭和24~30年頃 ガラス乾板12×16.5cm

 中央マーケットは昭和50年代まで大船渡駅前通りにあった商店街です。その前身は終戦直後にできた引揚者による市場で、1階が店舗、2階が住居の建物が立ち並び、青果店や鮮魚店、飲食店、理髪店などが多くの人で賑わっていました。

 『中央マーケット』の名称は昭和24年、大船渡臨港線開通時の写真から見ることができます。

大船渡駅から東方向、駅前通りを撮影したもの。
写真① ゲート左側に『中央マーケット』の看板。ゲートの向こう側にも看板が見えます。
写真② 中央マーケット北側の建物には看板がなく、一階の暖簾のみが確認できます。
中央マーケット前の通りを南(汐見橋方向)から撮影。右手に二階建ての店舗が並んでいます。
写真③ 建物の中間部に設けられた『中央マーケット』の看板。

看板の文字は、向かって左側から「菓子と果物 □□ □□ お土産用品 ふじ屋商店」「化粧品 洋品 □□ ヒラヤマ  マツダランプ ※1 代理店」「おかずの店 千田食品店」「衣類 和服 洋服 吉成」「鮮魚 精肉 志田精」「貸本 売本 古本 買入 新星堂」「趣味と實用のお履物 マルヨ履物店」「鮮魚 乾物 海産物加工品 志田商店」「大衆食堂 すずらん」 
昭和20年代後期の撮影と思われる、駅前交差点方面から見た中央マーケット。左手は茶屋前埋立地、右手は汐見橋方面。
写真④ 中央マーケットの看板。取り付けは建物と平行ではなく駅前交差点方面を向いているように見えます。
写真⑤ 北側に並ぶ商店。昭和24年の写真には見られなかった看板が確認できます。向かって右の角には「服装の店 さいとう」、続いて「小料理 ゑびす」「だいこくや 大黒屋」「萬福」「中華そば 東家 支店」「地酒と軽食 いこい 憩」「□□」。
写真⑥ 西側の商店。昭和24年に見られた『中央マーケット』の看板は「塗装 板金 □□」に書き換えられています。
向かって左から、「ふじ屋商店」「精肉 米久」「おかずと調味料 千田食品店」「吉成衣料 背廣」「鮮魚 志田精商店」「玩具 古本 果物 菓子」「マルヨ履物店」「志田商店」「□□ □□ □□」「大衆食堂」。
 昭和27年頃に建設された、路地を挟んで立ち並ぶ商店街。
写真⑦ 商店街入口ゲートの看板。
写真⑧ 「鮮魚 しだせい」店頭の陳列棚と、覗き込む少女。
写真⑨ 通路奥の突き当たりに「東家」の看板。

※ 本記録は、佐藤写真館所蔵のガラス乾板を高解像度でスキャンし、看板文字についてはできる限り忠実に転記したものです。読み取りには限界があるため、一部に不明瞭・判読不能な箇所(□)があります。誤記・補足情報等ございましたら、どうぞお知らせください。
 
 写真に写っているお店をご存知の方、記憶にある方がいらっしゃいましたら、ぜひお話をお聞かせください。

参考文献

  • 大船渡まちなか昭和史研究会「大船渡まちなか昭和史―渋沢栄一も夢見た大船渡の発展―」イー・ピックス 2021年

注釈
  1. 『マツダランプ』は、戦前から昭和後期にかけて広く使われた白熱電球・蛍光灯のブランドで、東芝(旧:東京電気)が製造していました。自動車メーカーのマツダとは無関係ですが、マツダ(Mazda)という名称が古代ペルシアの宗教「ゾロアスター教」の神「アフラ・マズダー(Ahura Mazda)」に由来するのは共通。[]

紙芝居

大船渡市盛町

昭和25年頃 フィルム 6×4.5cm

※著作権保護のため、画像には加工を施しております。

昭和の子供たちにとって、紙芝居は特別なひとときでした。

この写真は駄菓子を売る街頭紙芝居の様子を撮影したものです。テレビが一般家庭に普及するまで、娯楽としての紙芝居は子供たちに根強い人気があったようです。

この写真の特徴は、紙芝居師の背後から撮影している点です。右手で太鼓を叩きながら左手で画を差し替えるといった、紙芝居師が演じる独特の所作は、写真を生業とする祖父の目にも新鮮に映った事が伺えます。

厳しい時代を生き抜く紙芝居師の背中に祖父や父親の姿が重なり、
私にとっても、特に心に残る一枚です。

①右手で太鼓を叩く。金属製の打楽器も確認できます。
②引き出しに乗せた脚本を左手で取り上げる。

紙芝居の脚本について

 紙芝居の原型は昭和初期に考案された『平絵紙芝居』と呼ばれるもので、代表作『魔法の御殿』は昭和5年に実演されました。絵は手描きによる一点もので、当初は文字による台本というものがなく、『タクヅケ』と呼ばれる口伝によって芝居のあらすじが伝授されていました。加太こうじ著『紙芝居昭和史』には、地方業者にはタクヅケを伝えきれず、絵を見て自由に語らせる慣習があったと記されています。

 やがて街頭紙芝居が普及していく中で過激な絵柄・卑猥な内容の業者が横行しました。これが社会問題となったことから、昭和13年には警視庁による紙芝居検閲制度が実施されました。脚本を絵に添えなければ検閲が受けられないため、演者は脚本に忠実な語りを求められるようになりました。一方、街頭紙芝居から分化した『印刷紙芝居』には裏面に詳細な脚本が書かれており、中でも『教育紙芝居』が戦時下での国策教育・国民統制の一環として台頭し脚本とともに普及したことなどから、脚本に忠実に演じる紙芝居のスタイルが定着したと言われています。

 写真①②では演者が右手で楽器を鳴らしながら、引き出しの上に重ねられた脚本と思われる紙を左手で手に取る様子が確認でき、街頭紙芝居が辿ってきた歴史の一端を垣間見ることができます。

※この写真をFacebookで発信した際、撮影年を「昭和30年頃」としていましたが、子供の服装や髪型を他の写真と比較した結果、終戦直後~昭和20年代中頃の可能性が高いと判断し「昭和25年頃」と訂正しました。

参考文献

  • 石山幸弘『紙芝居文化史 資料で読み解く紙芝居の歴史』萌文書林 2008年
  • 加太こうじ『紙芝居昭和史』岩波書店 2004年