橋本写真館

― 佐藤写真館の源流として ―

橋本写真館 門生一同。
昭和5年夏、橋本写真館 2階応接室にて。
裏書きには「蓄音機が廻ってる」と記されています。後列右端が佐藤多喜治。

 橋本写真館は当館初代・佐藤多喜治が入門し写真師としての修行を行った東京の写真館です。創業者の橋本良知は中島待乳 ※1 に写真を学んだ写真師で、橋本写真館には複数名の門生が集い、多喜治もその一人として修業を重ねました。

 多喜治が上京した大正13年は関東大震災の翌年にあたりますが、牛込区市谷甲良町 ※2 にあった橋本写真館は倒壊・焼失を免れていました。多喜治は複数の写真館から入門を断られた後、橋本写真館へ入門しました。

師の言葉

橋本良知 肖像(昭和初期)。
写真には「Y.HASHIMOTO USHIGOME TOKYO」のエンボスが施されています。

 大正13年、上京した多喜治は最初に入門した写真館を価値観の違いから3か月で辞め、野々宮写真館(九段坂下)の門戸を叩きます。しかし主任技師 ※3 の山崎静村から「現在技師と門生が20人は働いている。あんたが入門すると21番目で、1年2年は下働きして本業が身に着くのは5、6年以降になるだろう。こんな合資会社は修行をするに適当でない。個人経営の確実な技術家に弟子入りする様に ※4 。」と説明を受け、かつて山崎が経営していた三笠写真館(人形町)を紹介されます。多喜治は不安と期待を胸に門をくぐりましたが、ここでも入門は叶いませんでした。

 やがて日は暮れ、野々宮写真館へ戻ってきた時にはガス灯が辺りを照らしていました。そして、山崎から改めて紹介されたのが橋本写真館でした。多喜治は急いで新宿角筈 ※5 行きの電車に乗り、「焼餅坂上」で降りました。

 その日の夜、橋本写真館への入門が決まり、多喜治が日を改めて挨拶に伺う旨を伝えると、橋本は「山崎君の紹介で充分だ。荷物があるならすぐ取りに行ってきなさい」と告げました。

 この時の面談で「修行中の心得」として心に刻まれた言葉が、手記に残されています。

”江戸っ子になるな”
”友達は不用”

 多喜治はこの言葉をかたくなに守り修行に励みました。

門生の軌跡

大正13年初夏、橋本写真館入門時の佐藤多喜治。
牛込区市谷河田町の月桂寺にて、
兄弟子の村山乙巳によって撮影された写真。

 橋本写真館では多喜治の他にも複数名の門生が学んでいました。当時の写真と文献を照合すると、橋本門下から少なくとも4名が独立し各々の地で開業していたことが読み取れます。

  • 尾林
    北海道勇払郡苫小牧町 尾林写真館

  • 佐藤爽
    東京府東京市小石川区 佐藤写真館

  • 村山乙巳
    大阪府大阪市北区 村山写真館

  • 佐藤多喜治
    岩手県気仙郡盛町 佐藤写真館

 文献を辿ると、尾林は大正12年頃、佐藤爽は昭和23年頃、村山乙巳は昭和16年頃まで確認することができます。

盛町に開業した佐藤写真館(昭和9年頃)。
スタジオは2階に作られており、窓からの自然光を利用して撮影していました。

 大正15年、修行を終えた多喜治が盛町で開業した佐藤写真館は、橋本写真館で学んだ技術と姿勢をもとに、地域の皆様に支えられながら歩みを始めました。

次回は、当館に残る資料から橋本写真館の師弟関係を読み解いていきます。

注釈
  1. 中島待乳(なかじま まつち)は明治期の写真家。横山松三郎に写真を学び、浅草に写真館「待乳園」を開業しました。写真撮影にとどまらず、幻燈機の製作にも携わり、写真や映像を一般社会へ広める役割を果たした人物として知られています。[]
  2. 現在の新宿区市谷甲良町付近。[]
  3. 今でいうカメラマン(撮影者)のこと。当時は撮影から現像・修整まで高度な専門技術を要したため、このように呼ばれました。[]
  4. 本文中の表現は手書き手記の内容をもとに記述しています。[]
  5. 角筈(つのはず)は、 現在の新宿駅周辺(西新宿、歌舞伎町、新宿三丁目の一部など)を指す旧地名。[]

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